十種の神宝 種の神理

種の理

蒔かぬ種は生えぬ。と言う真理の世界に人間も住んでいます。
種と言うのは植物や動物のほかにも沢山の種があります。

人間の体や運命にも種の理は働いています。

運が悪いというのは運の悪くなる種を蒔いてきた証拠です。
体が悪いというのも体が悪くなる種を蒔いてきた証拠です。

このように言われると、自分にはそんな覚えはない、悪くなるような種を蒔いた覚えもない、と言う人がいます。
この人は蒔かぬ種は生えぬと言う諺は知っていても、種の理と言う真理を知らない、もしくは悟っていない人です。
知ることと悟ることは違います。

小さな一粒の種を蒔くと、やがて芽が出て、根が出て、葉が出て、大きく伸びて枝も出来て沢山の花が咲いて、その花の中に蒔いた種と同じ種が出来ます。
一粒の種を蒔いたので一粒の種が出来るのではなく、一粒の種が多くの種となります。
これが大自然の法則で種の理と言う真理です。

一粒の種が蒔かれて、やがて多くの種になると言う種の理は植物だけの事ではなく、人間も同じです。

人間の場合は大別すると、良い種と悪い種になります。
良いことを思い、良い行いをすると良い種となります。
悪いことを思い、悪い行いをすると悪い種となります。
良い種は良い因縁となり、悪い種は悪い因縁となって生えてきて事情や身情に現れると、運命や人生に影響が現れます。

小さな種をたった一粒蒔いてもやがて多くの種になるごとく、小さなわずかな悪いことをするとそれが種になります。
種は小さくとも油断していると、やがて多くの種になり大きく伸び育って大きな災難となってしまいます。

種の理を悟っていれば、小さな悪いことをしてしまっても、大変なことになる前に気が付いてお詫びの行いに悪い種以上に良いことをして、良い運命に変えてしまうことが出来ます。

種を蒔いて土を被せると、種は見えませんがやがて芽が出て、根が出て、葉が出て、花が咲いて、実になります。しかし種を蒔いても土を被せなければ鳥に食べられるか風に流されて実になりません。

人間にも同じことが言えます。
人が見ていなくても良いことをして、誰がやったかわからないようにしておく事、「伏せ込み」と言いますがこれが大事です。

良いことをしても人にわかるようにすると誉められますが、種を蒔いても土を被せないで見えるようにしておくと、鳥に食われて無くなってしまいます。
良いことをしても誰も認めてくれない、こんなに良いことをしてやったのにわかってくれない、折角良くしてやったのに何のお礼もないと言うように、それこそ折角良い行い良い種を蒔いてもありがたくないとか、癪にさわると言って不足をすれば、蒔いた種は良い行いの良い種であっても傷んで腐って無くなってしまいます。

良い行いをして人に判ってもらえなくても、誉めてくれなくても、馬鹿にされても、平気で悠々としていると、良い種は伏せ込んであるので、誰にも判らなくとも時期が来れば、土の中から芽が出て、葉が出て、花が咲いて、実になったときに蒔いた種が現れてきます。

良い行いをした良い種は、時期が来て良い花が咲いて花のように美しい人生となり、実りの時にその実を見れば、そしてその種を見れば、どのような種を蒔いてきた人か判るはずです。

行いが種 ➡

簡単に言うと事情(じじょう)の次に身情(みじょう)と言う事になります。
身情と言って身体が病になるには、必ずその前に事情と言ってゴタゴタがあったのです。

この方式は大自然の真理で、事情の次に身情があるという因縁の方式でもあります。

考える事と行う事が種となって生えてくる。これが因縁です。
良い考え、良い行いをする人であれば、良いことが生えてくる。これは善因縁です。
悪い考え、悪い行いをする人であれば、悪いことが生えてくる。これは悪因縁です。
この法則は世の中に整然として存在しています。

例えば、親と一緒に暮らすのは嫌だと言う人は、その事が親不孝である事を知らないので、その親不孝因縁は因縁事情なのでやがて身情になり病難、災難となって現れてくるでしょう。

この事を悟ると悪いことをするのが嫌になり、悪いことをしないように努力するでしょう。
それでも知らぬ間に、人を憎んだり、恨んだり、怒ったりします。
これくらいの事でも悪い種となり、その種が生えてくると、今度は憎まれたり、恨まれたり、馬鹿にされたりする運命となります。

知らぬ間に悪い事をしても、知らなかったのだからいいだろう、仕方がなかったのだからと言う事は通用致しません。

このようにこの種の理を悟って、これからは悪い種でなく良い種を蒔くようにしましょう。