日本に普及している宗教の説明

 

神道とは

神道とは,日本民族に固有の神・神霊についての信念に基づいて発生し,展開してき
た宗教の総称であります。

また神道という場合には,神・神霊についての信念や伝統的な宗教的実践に限らず,広く生活の中に伝承されている態度や考え方をも含むこともあります。

神道は,大別して,神社を中心とした神社神道,幕末以降創設された教派神道及び前二者のように宗教団体を結成せず、家庭や個人において営まれる民俗神道があるという説が有力であります。

以下,教団として成立している神社神道と教派神道について記述することとします。

⑴ 神社神道系

神社神道系の諸教団の多くは,神社を中心として構成されています。
したがって,まず,神社の沿革について略記することにします。

現在,宗教法人となっている神社は約 8 万あり,また宗教法人とならずとも人々の崇敬を受けている神社も数多くあります。

その神社にまつられている祭神は,俗に八百万神(やおよろずのかみ)といわれるように実に多彩であり,また祭神が不詳の神社も少なくないですが,祭神が明確なものについては,一応,次のような区分がなされる場合があります。

①万物創造に関する神(造化三神)
天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
神皇産霊神(かみむすびのかみ)など

②霊能上の神
布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)など

③職業に関してまつられた神
事代主命(ことしろぬしのみこと)
金山彦命(かなやまひこのみこと)など

④天象に関する神
火之加具土神(ひのかぐつちのかみ)
罔象女神(みづはのめのかみ)
加茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)など

⑤地象に関する神
大山咋神(おおやまくいのかみ)
底津・仲津・表津綿津見神(そこつ・なかつ・うわつわたつみのかみ)など

⑥動植物に関する神
高龗神(たかおかみのかみ)など

⑦食物に関する神
宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)など

⑧人をまつったもの
菅原道真(天満宮)
徳川家康(東照宮)
戦争等で亡くなった人々(靖国神社,護国神社)など。

なお,神社の中には,神宮,大社などの名称を有するものがありますが,このうち神宮という名称を有する神社のほとんどは,皇室にかかわりのある神社,歴代の天皇をまつる神社であります。

神社に様々な神々がまつられているのは、古代の日本人の信仰とその後の事情に由来します。

古代の日本人は,かつて本居宣長が「尋常ならずすぐれたる徳のありて可畏き物を迦微(かみ)とは云ふなり。(古事記伝)」としたように,神秘で畏敬の念を抱かせる存在を広く神として信仰の対象としていたといわれています。

神社を称して氏神ということも多いです。

氏神が意味するところは,
①文字通り氏族の祖先としてまつる神
②祖先神でなくとも氏に由緒ある神
③居住地の鎮守の神,を含みますが,氏神というとき③の鎮守の神をさすのが近世以降では一般的となっています。

集落にその地を守護する鎮守神をまつる風習は普及し,明治初期には,全国に神社の数は,旧村落の大字村の数 18 万余に近かったといわれています。

このように神社は,基本的には,氏族や地域集団といった一定の社会集団によってまつられてきましたが,神社の個性や祭神の神徳が強調されその土地や血縁関係を離れて伝播し,広く参詣者を集め,神社によっては各地に分社が勧請されていく一面をも有しています。

例えば,古くは熊野神社が熊野信仰の流布に伴い各地に分布していきました。
また伊勢の神宮は,古くは国家的なものに限られていましたが,ことに戦国末頃から伊勢の大神が各地に飛び移るという信仰によって,各地に神明社が建設されていきました。

現在,神明社は全国に約 1 万 8,000 社あるといわれています。

また,宇佐八幡宮に発祥するとされる八幡神は武術の神として源氏一族をはじめ武人が広く尊崇するところとなりました。

現在,八幡神社は全国におよそ 2 万 5,000 社あるといわれています。

また,京都の伏見稲荷大社を総本社とする稲荷神社にまつられる稲荷大神・宇迦之御魂神は,古くは農業神として広く信仰されていましたが,やがて殖産興業神,商業神,屋敷神などへと機能が拡大され,農民層のみならず商工業者層,武士層へと浸透し,全国的に普及していき,現在全国に約 3 万 2,000 社あり,全国で最も多くまつられているといわれています。

菅原道真をまつる天満(天神)社は,道真の太宰府での没後,その怨霊の活動が語られ,京都に道真の霊がまつられたことに始まります(北野天満宮)。

この信仰は室町時代に全盛となり,文学詩歌などの神としても崇められ,広く天神講が普及しました。

現在,天満社,天神社は約 1 万 500 社あるといわれています。

神社の在り方としては,それぞれ単独に活動するものであり,連合して教団的結束を有するものはあまり見られませんでした。

神社が教団的な形態を採るようになったのは,神社が国家の管理を離れ,宗教法人令による宗教法人として各々の道を歩むこととなった昭和 21 年以降のことであります。

以来,宗教年鑑に列挙される神社神道系の宗教団体が結成されています。

神社を中心として結成された宗教団体のうち最大のものは,公益財団法人日本宗教連盟(略称・日宗連)の協賛団体の一つ,神社本庁であります。

神社が国家管理を離れるに際し,大日本神祇会,皇典講究所,神宮奉斎会の民間三団体が中心となって宗教団体の結成が図られ,昭和 21 年 1 月 23 日「……全国神社の総意に基き,本宗(ほんそう)と仰ぐ皇大神宮の許に,全国神社を含む新団体を結成し,協力一致神社本来の使命達成に邁進し,以て新日本の建設に寄与せんことを期す。」との「神社本庁設立に関する声明」を発し,神社本庁が発足することとなりました。

神社本庁は,同 31 年 5 月,神社信仰のための拠るべき指針として「敬神生活の綱領」を示し氏子・崇敬者の教化・育成につとめ,また同 55 年 7 月から「神社本庁憲章」を施行し,神社本庁の精神的統合の基本的規範を確立しました。

本宗とされる神宮(一般には伊勢神宮)を新しい敷地に移し替え,神宝を新たにする20 年に一度の式年遷宮が戦後は昭和 28 年,48 年,平成 5 年,25 年に執り行われ,神社界のみならず,一部の仏教団体などもあわせて奉賛しました。

神社本庁には,全国の主要な神社を含め,全国神社の大部分(78,766 社)が加盟しており,47 都道府県にそれぞれ神社庁が置かれています。

神社本庁以外の神社を中心とする包括宗教団体の性格は,
①神社本庁と同様,神社が結集して成立したもの
②神社の崇敬者講などを中心として成立したもの,の二つに大別できます。

①としては,近畿の府県に分布する神社が結集した神社本教,広島県下の神社を中心とする神社産土教(うぶなすきょう),かつての大日本神祇会北海道支部渡島部会に属した神社が結成した北海道神社協会などがあり,
②としては,御嶽神社を中心とする木曽御嶽本教,石鎚神社を中心とする石鎚本教などがあります。

⑵ 教派神道系

教派神道系の諸教団は,神道的宗教伝統の中から特定の組織者・創唱者を中心とし,彼らの教説や宗教体験に従う信者からなる組織宗教であります。

その萌芽は古く山岳信仰の講集団などに求められますが,宗教年鑑に記載されている諸教団は,幕末以降に成立したものであります。

教派神道系の諸教団の成立の過程は一様ではありませんが,制度的な経緯から分類すれば,
明治時代に公認宗教の神道教派とされた十三派(黒住教,神道修成派,出雲大社教(おおやしろきょう),實行教,神道大成教,神習教(しんしゅうきょう),扶桑教,御嶽教,神理教,禊教,金光教,天理教,神道大教―現在の名称)及びその傘下に入っていて戦後分離・独立した教団並びにそれらの教団の系譜を引くもの(本年鑑では教派神道系に分類),とそれらの教団とは別に成立したもの(本年鑑では新教派系に分類)とに区分されます。

天理教は,戦後,教派神道系を脱し,諸教に入りました。
なお 12 団体によって,教派神道連合会が組織されています。

教派神道系の諸教団は,神道的要素を基調とするものの,さらに儒教,仏教,道教,修験道その他多様な要素を具備し,創唱者の独創的思想を中心としてそれぞれ独自性を示し,教派神道と称しても一概にその内実を語ることは困難であります。

『宗教学辞典』では,教派神道系教団を①山岳信仰系,②純教祖系,③禊系,④儒教系,⑤復古神道系に区分しています。

ここでは一応この区分に従って,若干の教団を紹介することにします。

①山岳信仰系の教団は,霊峰を崇敬の対象とし,さらに霊峰での修行を重視する山岳信仰の講集団に由来するもので,富士山信仰を基本とする富士講,この富士講から柴田花守(はなもり)が組織した實行教,宍野 半(なかば)(1844 〜 1884)が結成した扶桑教のほか,丸山教,富士教,富士本教などがあります。

また木曽御嶽山信仰の御嶽講社の系統には,下山応助(おうすけ)が明治初年に組織した御嶽教,御嶽教修正派,御嶽山曽間本教,御嶽山大教などがあります。

②純教祖系の教団は,教祖の個人的な宗教体験及びそれに基づく教えを基に結成されたもので,黒住宗忠(1780 〜 1850)の黒住教,金光大神(川手文治郎)(1814 〜1883)の金光教,出口なお(1836 〜 1918)を開祖とし,出口王仁三郎(おにさぶろう)(1871 〜 1948)を聖師と仰ぐ大本があります。

また,中山みき(1798 〜 1887)が開いた天理教の系譜に,大道教,世界心道教などがあります。

③禊系の教団は,教理・実践の面で禊による心身の鍛錬をとりわけ強調するところに特徴があり,井上正鉄(まさかね)(1790 〜 1847)を教祖とし,坂田正安・鉄安らが結集した禊教,芳村正秉(まさもち)(1839 〜 1915)を教祖とする神習教などがあります。

④儒教系の教団は,儒教と復古神道の要素を融合して有するものであり,新田邦光(くにてる)(1829 ~ 1902)が開いた神道修成派,平山省斎(せいさい)(1815 ~ 1890)が創唱した神道大成教などがあり,神道大成教からは修験道教,天地教(兵庫)などが派生しています。

⑤復古神道系の諸教団は,その教えに本居宣長・平田篤胤ら近世の国学者の神道説の影響をもっとも濃厚に受けているもので,出雲大社大宮司の千家尊福(たかとみ)(1845 ~ 1917)が組織した出雲大社教,巫部経彦(かんなぎべ)(1834 ~ 1906)が開いた神理教,明治初期に設置された神道事務局,神道本局の系譜を引く神道大教などがあります。

2 仏教と仏教系の諸教団

日本の仏教は,インドから中国,朝鮮半島を経て伝来しました。

仏教の公伝は,538 年(一説に 552 年)といわれますが,それ以前にも,民間では,渡来人などにより伝えられていました。

やがて,中国・朝鮮半島の仏教がもたらされて宗派が結成されました。

例えば,南都仏教は,渡来僧や遣唐使などによって伝えられたものであり,天台宗と真言宗は唐より最澄と空海が伝えて開創したものであります。

鎌倉時代初期までは日本の仏教は 8 宗あると考えられていました。
すなわち,三論(さんろん),成実(じょうじつ),倶舎(くしゃ),法相(ほっそう),華厳(けごん),律(りつ)の南都六宗と天台宗,真言宗であります。

しかし,鎌倉時代には定着した仏教文化を背景に,法然の浄土宗,親鸞の浄土真宗,日蓮の日蓮宗など日本人自身による独自の仏教が創唱されました。

また,この時代には入宋(にっそう)した栄西と道元により,臨済宗と曹洞宗が伝えられました。

戦前,宗教団体法以前,公認された仏教宗派には,13 宗 56 派がありました。

13 宗とは,法相宗・華厳宗・律宗・天台宗・真言宗・融通念仏宗・浄土宗・臨済宗・真宗・曹洞宗・日蓮宗・時宗・黄檗宗(おうばくしゅう)(成立順)であります。

昭和 14 年,宗教団体法が成立したとき,これらの宗派は,28 宗派にまとめられました。

13 宗 56 派と 28 宗派の関係は,次頁のとおりである。

戦後,宗教法人令が成立し,国の認可制度がなくなると,多数の仏教教団が分派・独立し,多くの宗派が新設されました。

その後,昭和 26(1951)年の宗教法人法成立を機に,多少,解散したものもありますが,文部科学大臣所轄包括宗教法人としては平成 29(2017)年末現在,157 の仏教宗派が存在しています。

以下,日本仏教の主な宗派とその流れについて,簡単に紹介することにします。

⑴ 聖徳太子と仏教

日本の仏教は,聖徳太子(574 〜 622)によってその基礎が据えられたとされています。

太子は仏教思想を非常に深く受容し,これを治世にも生かしたといわれています。

太子はまた,法隆寺や四天王寺などを建立しています。

法隆寺は,その後,長く法相宗(ほっそうしゅう)の学問道場としての役割を果たしてきましたが,今日では法相宗から独立し,聖徳宗を形成しています。

四天王寺は天台宗に属していましたが,戦後独立して和宗を形成し,その総本山となっています。

⑵ 奈良仏教

奈良時代に入ると,遣唐使によって唐から移入された学問仏教が奈良の諸大寺院で学ばれました。

これは一口に南都六宗といわれており,三論・ 成実(じょうじつ)・倶舎(くしゃ)・法相(ほっそう)・華厳・律の 6 宗をいいます。

このうち法相宗とは,インドに由来する唯識教学を研究する学派で,今日,興福寺と薬師寺を二大本山とし,その伝統を伝えています。

また,華厳宗は,東大寺を大本山とし,中国の賢首(げんじゅ)大師法蔵が華厳経に基づき大成した華厳教学を研究する学派であります。

東大寺には,752 年,華厳経の教主・毘び盧る遮しゃ那な仏をかたどる大仏が建立され,この東大寺を総国分寺とする国分寺の組織も整備されました。

総じて,奈良仏教は,鎮護国家的性格を有していました。

なお,754 年,唐から鑑真(688 〜 763)が来朝し,授戒の制を確立しました。
鑑真の開創した寺院が唐招提寺で,今に律宗を伝えています。

⑶ 平安仏教

平安仏教を代表するものとしては,天台宗と真言宗があります。

〔天台宗〕

天台宗の開祖は,伝教大師・最澄(767 〜 822)であります。

最澄は入唐して隋の天台智顗(ちぎ)の大成した天台教学を究め,さらに密教と禅と律の伝授も受けて帰朝し,806 年,円(天台教学)・密・禅・戒の四宗を綜合する天台法華宗を開創しました。

天台教学は法華経に基づくものであり,あらゆる人々は仏となる因(仏性)を有しているという一乗思想のほか,三諦円融(さんたいえんにゅう)の教え,一念三千の教えなどの思想を有しています。と同時に,心を統一しつつ自己と存在の実相を観察する「止観」を中心とした実践行も重視し,教観双修を標榜します。

天台宗には,峰々を毎日歩きまわる回峰行,長い年月山に籠る籠山行(ろうざんぎょう)など極めて厳しい行が伝わっており,今に,これを修する人が絶えません。

なお,最澄は戒に関して特に大乗の立場での戒を主唱し,日本仏教における戒観の基礎を築いたことも忘れることはできません。

このほか日本の天台宗はもとより密教を含んでいましたが,その後に真言宗の影響を受けたり,円仁(794 〜 864),円珍(814 〜 891)が出てさらに密教化し,真言宗の東密に対し台密と呼ばれる密教を栄えさせました。

天台宗の総本山は比叡山延暦寺であります。

天台宗からの分派としては,円珍門下の余慶が三井の園城寺に拠ったところから始まる天台寺門宗,戒称一致(大乗円頓戒と称名念仏を統合)の教学を唱えた慈摂(じしょう)大師真盛(しんせい)による天台真盛宗などがあります。

なお,戦前,鞍馬寺や浅草寺は天台宗に属していましたが,戦後いずれも独立してそれぞれ鞍馬弘教,聖観音宗を形成しています。

〔真言宗〕

真言宗の開祖は弘法大師・空海(774 〜 835)であります。

空海は唐で恵果より真言密教を学び,ことごとく秘法を伝授されたといいます。

帰国ののち真言宗を開き,823 年には,嵯峨天皇から東寺を賜って皇城鎮護の道場とし,835 年,高野山で入定(入寂)しました。

この間,布教活動とともに福祉的活動や橋をかけるなどの社会事業にも尽力しました。

密教というのは,歴史上の釈尊が説いたとされる顕教に対するもので,法身仏(いわば絶対者)である大日如来が,直接説いた教えといいます。

生きとし生けるものは,宇宙の根源的な生命である大日如来の顕現であり,我々も身・口・意の三密行の実践により即身成仏することができると説きます。

そのほか具体的な行として阿字観などがあり,また諸尊の加護を求めて加持祈禱がしばしば行われます。

曼荼羅は密教の悟りの世界=宇宙の大生命を象徴的に図画でもって示したものであり,かつ現実世界がそのまま理想世界であることを示すものであります。

また,高野山は,弘法大師・空海の入定の地であり,大師の救いを信じて南無大師遍照金剛と唱える大師信仰の中心となりました。

この高野山金剛峯寺を総本山とする高野山真言宗は真言宗団の中でも最大の宗団であります。

また,真言宗は皇室と縁が深く,大覚寺,仁和寺等の門跡寺院が多くあり,それぞれ一派を形成しています。

12 世紀には,覚鑁(かくばん)(1095 〜 1143)が出て密教と高野山の復興につとめました。

覚鑁は金剛峯寺と大伝法院の座主を兼任するなどしましたが,金剛峯寺勢力と折り合わず,高野山を離れて根来(ねごろ)(和歌山県)に本拠を置きました。

その後,頼瑜(らいゆ)(1226 〜 1304)が出て大伝法院を根来に移し,新義真言宗として独立しました。

根来寺が豊臣秀吉に焼かれると,専誉(せんよ)と玄宥(げんゆう)の二人の能化は,それぞれ大和長谷寺,京都智積(ちしゃく)院に移り,現在の真言宗豊山(ぶざん)派と真言宗智山(ちさん)派の基を据えました。

〔修験道〕

平安末には日本古来の山岳信仰が仏教,道教,シャーマニズム,神道などと習合して,修験道という一つの宗教体系を作り上げました。

中世期,大峰山では吉野・熊野を拠点として修行が行われ,熊野側では 聖護院(しょうごいん)を本山とする本山派が,吉野側では大和を中心に当山派が形成されました。

江戸時代には両派が認められていましたが,明治政府により神仏分離政策がとられ,明治 5(1872)年,修験道は一宗としては廃止され,本山派は天台宗に,当山派は真言宗に組み込まれるかたちとなりました。

現在は独立して本山修験宗,真言宗醍醐派,金峯山修験本宗,修験道などとなっています。

⑷  鎌倉仏教

鎌倉時代には多くの宗派が生まれています。

平安末から鎌倉時代にかけては政治の実権が貴族から武士へと移る転換期であり,その一方,天災・飢饉・戦乱などによって民衆の苦悩は深まっていきました。

しかも仏教史観によれば,末法の時代でもありました。

そうした中で貴族階級中心の平安仏教に代り,民衆の救いへの願いに応える仏教が生まれたのでありました。

〔浄土宗〕

浄土宗系の教団で宗祖とされている法然(1133 〜 1212)は初め比叡山に上り,次に南都に遊学し,諸宗の奥義を究めたが満足できず,ついに中国の善導大師の『観経疏(かんぎょうしょ)』の一文に触発されて,専修念仏を唱導する浄土宗を開創しました。

すなわち,この末法の時代には阿弥陀仏の御名を称えることによって極楽浄土にひきとっていただき,そこでやがて悟りを開く方がふさわしいとして,専ら念仏の易行のみを修する立場を選択しました。

この他力易行としての念仏は,愚人,悪人こそが救われる道として,当時の民衆に大きな影響を与え,法然のまわりには貴族から遊女らに至るまで集まりました。

しかし,従来の諸宗は伝統的な仏教を否定するものとして反発し,朝廷に念仏停止(ちょうじ)の令を発するように働きかけた。結局,法然は土佐(実は讃岐)流罪に処せられ,高弟らも,死罪や流罪に処せられました。

現在の浄土宗は,法然の高弟のうち特に九州地方で活躍した弁長(1162 〜 1238)の鎮西流を中心とする宗派であります。

第三祖の良忠(1199 〜 1287)は主に関東を中心に伝道し,その門下からさらに全国に広まりました。

戦後,一旦は分立した知恩院の浄土宗本派,増上寺の浄土宗,金戒光明寺の黒谷浄土宗が合併し,知恩院を総本山とし,増上寺,金戒光明寺,光明寺,善導寺などを大本山とする現在の浄土宗を形成しています。

法然の高弟の一人証空(1177 〜 1247)の門流には,現在,浄土宗西山深草派,西山浄土宗,浄土宗西山禅林寺派があり,これらは西山三派といわれています。

〔浄土真宗〕

浄土真宗の宗祖は親鸞(1173 〜 1262)であります。

親鸞は初め比叡山で修学に励みましたが,29 歳の時,京都六角堂に参籠したおり,聖徳太子の夢告を得て,法然の下に参じたといわれています。

やがて法然の高弟の一人となり,法然が四国流罪とされたときには越後流罪に処せられました。

その後,関東で教えを広め,晩年には京都に帰りましたが,手紙(消息)により関東の門弟を指導し続けました。

親鸞は,法然の唱導した浄土門の念仏の教えこそ真実の教え(=浄土真宗)であると考えていました。

もっとも親鸞の立場はむしろ信心に徹底し,信が定まったときに必ず仏となる者の仲間「正定聚(しょうじょうじゅ)という」に入る,すなわち,浄土往生以前にこの世で救いが成就する(現生正定聚)とされました。

しかもその「信心」も「念仏の行」も,如来より施与(廻向)されたものとされ,絶対他力の教学を完成したといいます。

晩年には自然法爾(じねんほうじ)にと述べています。

なお,親鸞は妻帯も仏道を妨げないことを唱え,非僧非俗と称し,出家教団とは異なる教団を形成しました。

現在,真宗教団で最も大きなものは,浄土真宗本願寺派(西),真宗大谷派(東)の東西本願寺教団であります。

本願寺は元来,親鸞の廟堂であり,親鸞の子孫が管理しました。

三代覚如(1270 〜 1351)の時,本願寺となり,第 8 代の蓮如(1415 〜 1499)は活発に布教活動を展開し,今日の大教団の基礎を築きました。

なお,西本願寺は豊臣秀吉から寄進された土地に建てられ,東本願寺は,その後,徳川家康が当時現職を離れていた教如(光寿)に施与したもので,東西両本願寺が並び立つこととなりました。

真宗の十派は真宗教団連合を結成していますが,東西本願寺教団以外に真宗高田派,真宗興正派,真宗佛光寺派などがあります。

そのほか浄土系の宗派の代表的なものとして融通念佛宗と時宗の二宗があります。

〔融通念佛宗,時宗〕

融通念佛宗は良忍(1072 〜 1132)が開祖であります。

良忍ははじめ天台宗を修めましたが,比叡山を下り,46 歳のときに阿弥陀如来より「自他融通の念仏」を受け,融通念佛宗を開いたといいます。

自他の念仏が相互に力を及ぼしあって浄土に往生すると説いています。

良忍はまた,天台声明の中興の祖としても有名であり,大念佛寺を総本山としています。

時宗の開祖は一遍(1239 〜 1289)であります。

一遍は証空門下の聖達に学び,後に熊野本宮で神勅を得たとして自らの教学を形成しました。

一遍は捨聖(すてひじり)といわれ,遊行(ゆぎょう)をこととし,彼の門弟も一遍に従って諸国を遊行しました。

また念仏を称えた人には算(さん)という念仏の札を与えました(=賦算)。

その宗団は,初め,時衆と呼ばれ,室町時代にかけて大きく成長しました。

清浄光寺(遊行寺)が総本山であります。

〔臨済宗,曹洞宗〕

鎌倉時代に成立した禅宗に,臨済宗と曹洞宗があります。

臨済宗は中国で成立した禅の一派で,禅匠臨済義玄の禅風を伝える宗派であります。

日本には栄西(1141 〜 1215)が宋より伝えました。

ただし,現在に伝わる臨済宗各派のほとんどは,鎌倉末期から室町期に活躍した大応国師「南浦紹明(なんぼじょうみょう)」,大燈国師(宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう),関山慧玄といういわゆる応燈関(おうとうかん)の流れであります。

さらに江戸時代には白隠(はくいん)(1685 〜 1768)が出て,これを中興しました。

禅とは精神統一の状態を意味する dhyāna(jāna)の音写「禅那(ぜんな)」の語に由来します。

すなわち,坐禅を組んで精神統一の状態に入り,自己の本性を見徹し,悟りを開くことを目的としています。

その悟りの境地は,言葉によって説明することはできず,師と弟子の間で心から心へと伝えられる「不立文字(ふりゅうもんじ),教外別伝(きょうげべつでん)」といいます。

また,古来,禅僧には,その悟りの立場から発する奇抜な言動が禅問答として遺されていますが,それらは後に禅の学人にとって自らの修行を深めるよすがとして生かされるようになりました。

これを公案(こうあん)といいます。

白隠禅は公案による禅修行を主体としています。

臨済宗の中で最も大きな宗団は,臨済宗妙心寺派であります。

妙心寺の開山は関山慧玄(1277 〜 1360)で,室町時代に雪江宗深によって全国的な広がりをもつ一派となりました。

その他,主な大本山とその開山を挙げますと,建仁寺は栄西,南禅寺は無関普門(1212〜 1291),天龍寺は夢窓疎石(1275 〜 1351),大徳寺は宗峰妙超(大燈国師)(1282 〜1337),建長寺は蘭渓道隆(1213 〜 1278),円覚寺は無学祖元(1226 〜 1286),また,相国寺は夢窓疎石を開山,春屋 妙葩(みょうは)(1311 〜 1388)を二世とし,各本山ごとに宗派を形成しています。

臨済禅は武士階級に好まれ,また,絵画(水墨画),演劇(能),茶道等,中世の文化に非常に大きな影響を与えました。

なお,江戸時代,明の禅僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)(1592 〜 1673)によって臨済禅がもたらされましたが,現在,黄檗宗(おうばくしゅう)として伝えられています。

京都宇治の黄檗山万福寺を本山としています。

曹洞宗は,やはり中国の曹洞宗の禅を,道元(1200 〜 1253)が入宋して伝えたものであります。

道元は初め,比叡山に上り修行し,その後,栄西が開いた建仁寺に入って禅を修するようになりました。

さらに宋に渡って禅宗諸師に遍参し,ついに天童如浄の下に,「身心脱落(しんじんだつらく),脱落身心」と大悟し,印可を受けたといいます。

帰朝しましたが,旧仏教の圧迫を受けた後に,越前に移り,永平寺を開き,弟子の育成に尽力しました。

曹洞禅は臨済禅と考え方がやや異なり,只管打坐(しかんたざ),ただ坐るということを重んじ,坐禅中に公案を考えることもしません。

坐禅は仏のはたらき,仏の活現に他ならないということで,これを「本証妙修(ほんしょうみょうしゅ)」といっています。

また,曹洞宗では,「行持綿密」,「威儀即仏法」といって日常生活の微に入り細にわたって綿密な規定がなされています。

道元の家風は,極めて厳格で,格調の高いものであり,一般に広まる性格のものではありませんでしたが,その門下の第四祖,瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)(1264 〜 1325)が禅を大衆化し,現在の大教団の基礎を築きました。

瑩山紹瑾は,石川県の能登に總持寺を開創しましたが,これは明治に入って火事にあい,横浜の鶴見に移っています。

現在,曹洞宗は福井の永平寺と鶴見の總持寺の両大本山制をとり,道元を高祖,瑩山を太祖として尊崇しています。

〔日蓮宗〕

日蓮宗は,日蓮(1222 〜 1282)を宗祖とします。

日蓮は初め,清澄(きよすみ)山に登って仏教を学び,後に,比叡山で天台教学を究めるなどし,故郷(千葉)に帰り,建長 5(1253)年,清澄寺で南無妙法蓮華経と高唱したのが開宗とされています。

その後,鎌倉を中心に布教活動を展開し,幕府に対して法華経に帰依すべきことを訴えましたが聞き入れられず,そのことにより数々の法難を受けました。

佐渡に流されますが,やがて許されると身延(みのぶ)山に入り,そこで専ら法華経の宣揚と道俗の訓育に当たりました。

7 年間ほどして病いを得て身延山を下り,常陸へ療養に向かう途中,立ち寄った池上で亡くなりました。

日蓮宗では,南無妙法蓮華経の題目(経の題名)を唱える唱題を説きますが,それは,法
華経こそが釈尊の悟りの全て,すなわち宇宙の実相を表しており,しかも「妙法蓮華経」の題目は,単に名称ではなく,法華経の説く内容,つまり仏陀の証悟の世界そのものである,という日蓮の考えからであります。

なお,日蓮は,南無妙法蓮華経を中心に,諸仏諸尊を回りに配した図によって末法の衆生を救済するという釈尊の本懐を顕わしましたが,その図顕の大曼荼羅(まんだら)も本尊として礼拝の対象としています。

現在,日蓮系の教団には,身延山を祖山とし,池上本門寺に宗務院を置く日蓮宗をはじめ,顕本法華(けんぽんほっけ)宗,法華宗(本門流・陣門流・真門流),本門法華宗等々,種々の宗派があります。

ここには,法華経に対する解釈の相違が介在しています。

なお,日蓮の寂後,身延の御廟は日蓮の定めた六老僧が管理しましたが,その中の一人,日興(1246 〜 1333)の流れを汲むのが日蓮正宗(にちれんしょうしゅう)であり,富士の大石寺に拠っています。

⑸ 近現代の仏教
〔明治の仏教〕

明治維新後,仏教を取り巻く状況は変化しました。

神仏分離と廃仏毀釈によって,寺院は影響を受けました。

明治 5(1872)年の壬申戸籍によって,僧侶は身分ではなく職業となり,同年には僧侶の肉食・妻帯・蓄髪を勝手たるとする布告が出されました。

教団の再編が行われ,本山から管長を中心とする組織に変化しました。

また江戸時代までの伝統的な宗学から,海外に留学した学僧たちによって近代仏教学が展開していきました。

仏教啓蒙運動や在家仏教運動が始まったのもこの時代からの特長であります。

〔新しい仏教教団〕

近代以降には,伝統仏教を背景としつつも新たな教団が,設立されていきました。

天台系に属する主な教団に,念法眞教,孝道教団などがある。念法眞教は,大正14(1925)年,教祖小倉霊現(おぐられいげん)(1886 〜 1982)が阿弥陀仏の啓示を受けたとして天台宗所属の教会を開いて布教していましたが,昭和 22(1947)年,別派独立したものであります。

孝道教団は,昭和 11 年,岡野正道(おかのしょうどう)(1900 〜 1978)及びその妻貴美子(1902 〜 1976)が,霊友会より独立し,宗教結社孝道会を結成したのに始まります。

真言系の主な教団に,真如苑,辯天宗などがあります。

真如苑は,真言宗醍醐派で修行した伊藤真乗(いとうしんじょう)(1906 〜 1989)が,後に醍醐派を離れ,昭和 23(1948)年,まこと教団を設立,その後,現名称に改められたもので,涅槃経を所依の経典としています。

辯天宗は,高野山真言宗寺院の住職の妻であった大森智辯(ちべん)(1909 〜 1967)が辯才天の天啓を受けて,昭和 27 年に立宗しました。

日蓮系には,新宗教団体が非常に多いです。

本門佛立宗(ぶつりゅうしゅう)は,本門法華宗で出家したが,後,還俗した長松清風(1817 〜 1890)が,安政 4(1857)年,佛立講を起こしたのに始まります。

法華宗に所属して活動したが,戦後,昭和 21 年,独立して本門佛立宗と称しました。

霊友会は,小谷喜美(1901 〜 1971),久保角太郎(1892 〜 1944)によって始められたもので,法華経信仰を基盤とした祖先崇拝が基本となっています。

この霊友会から,昭和 10 〜 13 年頃,孝道教団,立正佼成会などが独立し,さらに戦後,昭和 25 〜 26 年頃,妙智会教団,佛所護念会教団,正義会教団などが独立しました。

そのほか,妙道会教団,大慧會(だいえいかい)教団なども,霊友会から独立した教団であります。

立正佼成会は,長沼妙佼(1889 〜1957),庭野日敬(1906 〜 1999)らによって始められたもので,当初は,霊友会とほぼ同様の信仰形態でありましたが,その後,原始仏教,大乗仏教の教理を大きく採り入れ,近年は,宗教協力等に力を入れています。

なお,創価学会は,昭和 5(1930)年,牧口常三郎(1871 〜 1944)によって設立された在家信者団体である創価教育学会が母胎でありますが,牧口は自らの教育理論の確立のために日蓮正宗の信仰を採り入れ,その後は次第に信仰を中心とする団体に発展したものであります。

そのほか日蓮系の新宗教団体として法師宗,思親会などがあります。

〔戦後の仏教〕

戦後,宗教団体法の廃止と宗教法人令の制定により多くの宗派が旧来の宗派から分離,独立しました。

その中には浄土宗のように再度,合同したものや,分離して異なる包括法人として存在しているものもあります。

多くの宗派では教団組織を宗教法人法に合わせて整備を行いました。

また,現代社会において宗派として果たすべき役割が再検討され,天台宗の「一隅を照らす運動」,高野山真言宗の「御宝号念誦運動」,浄土真宗本願寺派の「基幹運動」と「実践運動」,臨済宗妙心寺派の「おかげさま運動」など新しい施策が採用されました。

また,仏教界では伝統仏教教団により昭和 29(1954)年に,「仏陀の和の精神を基調とする全一仏教運動」という理想のもと全日本仏教会「略称・全仏(ぜんぶつ)」が結成され,昭和32 年に財団法人として許可を受けました。

公益財団法人日本宗教連盟の協賛団体でもあり,教団の相互理解と宗派間による宗教協力,行政や社会問題への対応,世界の仏教徒との連携,親善などさまざまな活動を行っています。

3 キリスト教とキリスト教系の諸教団

⑴  日本への伝道

キリスト教の日本への伝道は,天文 18(1549)年,ローマ・カトリックのイエズス会の宣教師F・ザビエル(1506 〜 1552)の来日に始まります。

豊臣秀吉はキリスト教の信仰を禁じましたが,17 世紀初頭には,数十万人の信者がいたといわれています。

徳川幕府も徹底した弾圧を行ったため,キリスト教徒は全滅に等しい状況となりました。

日本へのキリスト教の本格的な再布教が準備されたのは幕末の頃でありました。
諸外国は日本の開国を求め,日本国内に公館を建て始めましたが,この動きとともに宣教師たちの日本上陸が始まりました。

ローマ・カトリックでは,安政 5(1858)年ジラールが日本知牧(ちぼく)に任ぜられ,翌年,フランス総領事館付司祭兼通訳の資格で江戸に入りました。

文久 2(1862)年には横浜に,元治 2(1865)年には長崎の大浦に天主堂が建てられ,長崎に上陸したプチジャンは潜伏していたキリシタンを発見しました。

ギリシア正教会では,安政 6(1859)年に箱館にロシア領事館が設置され,聖堂も建てられました。

文久元(1861)年にはロシアの修道司祭ニコライが領事館付司祭として赴任しました。

一方,プロテスタントでは,まず安政 6(1859)年にアメリカの監督教会(聖公会系),改革派教会(カルバン派系),長老教会(カルバン派系)からの宣教師・牧師が,それぞれ長崎,神奈川へ上陸し,外国人居留地を中心にキリスト教の伝道や教育が行われ,明治 5(1872)年には横浜にプロテスタント初の日本基督公会が設立されました。

こうしてキリスト教の日本への布教が再び始まりましたが,一方,明治新政府は,当初キリスト教を禁止する政策を取り,明治元(1868)年切支丹邪宗門禁制の高札を掲げました。

しかし,条約改正とからんだ国際世論の前に,明治 6(1873)年ついにキリシタン禁制の高札を撤去するにいたりました。

この高札撤去は、キリスト教の公認を意味するものではありませんでしたが,実質的にはキリスト教の布教は黙認されることとなりました。

このようにして,キリスト教各派の布教活動が一層拡大されていきました。

プロテスタントのうちルター派は明治 25(1892)年,アメリカ南部一致ルーテル教会が伝道を始め福音ルーテル教会を組織し,同 28(1895)年にはフィンランド系も伝道を開始しました。

カルバン派はプロテスタントでは最も早く伝道を開始し,日本基督公会を設立しましたが,明治 10(1877)年に日本長老公会と合同し日本基督一致教会を設立,明治 23(1890)年には日本キリスト教会と改称しました。

会衆派では,アメリカン・ボードの宣教師らによって宣教が進められましたが,明治 11(1878)年,関西の 9 公会が日本基督伝道会社を設立,明治 19(1886)年に日本組合基督教会が結成されました。

バプテスト派では,アメリカのゴーブルやブラウンによって伝道が開始され,明治 6(1873)年,横浜に第一浸礼教会が設立されました(北部バプテスト系)。

また,明治 22(1889)年からは南部バプテストの伝道も始まり,両派は協議して日本の伝道区域を東西に分け,東部は北部バプテスト,西部は南部バプテストの分担としました。

メソジスト派では,明治 6(1873)年にアメリカ・メソジスト監督教会とカナダ・メソジスト教会の宣教が始まり,この二者にアメリカ・南メソジスト監督教会系が加わり三者が合同して,明治 40(1907)年に日本メソジスト教会が結成されました。

⑵  キリスト教系諸教団

昭和 15(1940)年に宗教団体法が施行されたが,この法律の施行に当たってキリスト教で宗教団体たる教団となったのはローマ・カトリックの日本天主公教教団とプロテスタントの日本基督教団でありました。

日本基督教団はプロテスタントの日本布教の初めからあった超教派主義的な合同教会的性格の教団であり,当時,日本で活動していた教派のうち日本聖公会の一部とセブンスデー・アドベンチスト以外の教派がこれに参加しましたが,個々の教会の中には参加しないものもありました。

昭和 20(1945)年,宗教団体法に代って宗教法人令が施行され,各教派は新たに独自の教団形態を目指す道が開かれました。

プロテスタントでは,宗教団体法当時の日本基督教団に所属していた教派の中には,日本基督教団に留まるものも多かったのですが,この教団から分離し,独自の教団を形成するものもありました。

また,戦後には新たに布教を始めた教団も少なからず存在しました。

ローマ・カトリックは,宗教法人令により天主公教教区連盟となり,さらに昭和 26
(1951)年からの宗教法人法によりカトリック中央協議会となり,今日に至っています。

現在は全国を 16 の独立した司教区に分け,司教を中心として自主的に運営がなされています。

また,司教区を超えたローマ・カトリック界の全国的な活動について協議する日本カトリック司教協議会が設置されています。

なお,平成 29(2017)年 12 月末現在,日本において活動している宣教会修道院の数は 43,男子の修道院が 158,女子の修道院が 545,在俗会の数は 19 であります。

ギリシア正教会系の教団として,日本ハリストス正教会教団があります。

日本ハリストス正教会教団(ハリストスとはキリストのギリシア語読み)は,戦後には在米ロシア正教会と連携して活動しましたが,昭和 44(1969)年モスクワとの関係を回復し,同 45 年自治教会として正式に認められました。

同教団では,全国が三つの主教教区に分けられ,東京復活大聖堂(ニコライ堂)が首座主教座聖堂となっています。

プロテスタントの最大の教団は日本基督教団であります。

同教団は,日本基督教団の従来の合同教会としての理念を継承し,現在でも宗教団体法下の日本基督教団を構成した教派の多くを包含しています。

同教団は,教団総会を最高の政治機関とし,教会の運営については教会総会があり,会議制を採っています。

教団は昭和 29 年には信仰告白及び生活綱領を定め,昭和 44 年には沖縄キリスト教団と合同しました。

英国教会系では日本聖公会があります。

日本聖公会は明治 20(1887)年 2 月に全国の教会を組織した教団結成を決めていましたが,第2次大戦中に教団組織を解体させられました。昭和20(1945)年 12 月改めてその機構を復活して今日に至っています。

日本聖公会では,全国を11 の教区に分け,それぞれ主教をおいています。

ローマ・カトリックと同じく聖公会の教区も独立しており,教区内の事柄は主教を中心として運営されています。

日本聖公会は,首座主教のもとに一つの管区を構成し,他の管区の干渉を受けずに主教を叙任し,総会で全てを決定します。

日本基督教団,日本聖公会以外の主なプロテスタントの教団を列挙しますと,まず,ルーテル派では,日本福音ルーテル教会(アメリカ一致ルーテル教会系を中心にフィンランド系の福音ルーテル教会等が合同)が最大のものであり,日本ルーテル教団(アメリカ・ミズーリ派ルーテル教会系),日本ルーテル同胞教団(アメリカ・ルーテル同胞教会系),などがあります。

カルバン派では,日本キリスト教会,日本キリスト改革派教会,カンバーランド長老キリスト教会日本中会などがあります。

会衆派は日本基督教団に合同しています。

また,メソジスト派の教会の多くも日本基督教団に合同しているほか,日本自由メソヂスト教団(ホーリネス系)などがあります。

バプテスト派には多くの教団があり,中でも日本バプテスト連盟(南部バプテスト系),日本バプテスト同盟(北部バプテスト系)のほか,日本バプテスト・バイブル・フェローシップ(ファンダメンタル・バプテスト教会系),日本バプテスト教会連合などがあります。

また,ホーリネス系としては,日本ホーリネス教団(旧聖教会系),基督兄弟団(旧きよめ教会系),イムマヌエル綜合伝道団,東洋宣教団(旧称・東洋宣教会きよめ教会)などがあります。

⑶ キリスト教界の戦後の動き

現在,日本のキリスト教界には日本キリスト教連合会(略称・日キ連)や日本キリス
ト教協議会(略称・NCC)などの教団・教派を超えた組織があります。

日本キリスト教連合会はカトリックとプロテスタントによる団体で,法人事務の向上を図るために相互に研修し,親交を深めること,また憲法に定める信教の自由と政教分離の原則に基づき,全キリスト教会の信仰による良心の自由と共通の利益を守ることを目的とし,公益財団法人日本宗教連盟の協賛団体ともなっています。日本キリスト教協議会はプロテスタントの教会(教団)とキリスト教関係団体によって構成され,加盟団体のキリスト教としての一致をもとめるとともに,平和,人権問題などに取り組んでいます。

戦後,聖公会などプロテスタント教会を中心に進められてきたエキュメニズム(教会
合同運動あるいは世界教会運動)は 1960 年代になると,カトリック教会が第 2 ヴァチカン公会議以降,積極的な姿勢を打ち出したこともあって,大いに進展しました。その一環として昭和 53(1978)年にはカトリックとプロテスタントの協力によって『新約聖書共同訳』が刊行され,昭和 62(1987)年には旧約聖書も含む『聖書 新共同訳』が刊行されました。

キリスト教の流れ

4 諸教の諸教団

⑴ 諸教に分類される教団

諸教とは,神道系,仏教系,キリスト教系のそのいずれとも特定しえない教団をいいます。

すなわち,神道と仏教,あるいは神道と仏教とキリスト教など,複数の宗教が混合してできた宗教や,それらの宗教のいずれとも関係なく,独自に創唱された宗教などであります。

ところで,戦前,公認された宗教は,神道,仏教,キリスト教の三教のみであり,非公認の宗教団体は,行政上,「類似宗教」として扱われました。

宗教団体法では,教派,宗派,教団,寺院,教会以外はこの法における宗教団体としては認められませんでした。

ただし,これらの宗教団体以外に,教義を宣布したり儀式の執行を行う組織については,宗教結社として届出させるものとしました。

大正末期から昭和期にかけて,新宗教が多く出現していますが,これらは公認されている宗教団体の中に所属して活動したり,非公認の類似宗教団体として活動し,宗教団体法下にあっては宗教結社として活動するなどしました。

しかし終戦後,宗教法人令により宗教法人の設立が届出制になると,いわゆる新宗教も,それぞれ宗教法人を設立していきました。

戦後間もない頃には,神々のラッシュアワーと呼ばれたこともありました。

諸教の教団は,こうした新宗教の教団が多いです。

なお天理教は,もと神道教派 13 派のひとつでありましたが,その後,自らの教団が神道でないことを表明したため,現在,諸教の中に含まれています。

天理教系の「ほんみち」も元は教派神道に数えられていましたが,諸教に移りました。

諸教の主要な教団としては

天保 9 年,親神・天理王命(てんりおうのみこと)が,教祖(おやさま)中山みき(1798 〜1887)をそのやしろ(社)としてこの世に顕現し,教祖の口を通じて啓示されたという天理教

大正 8 年に,教祖深田千代子(1887 〜 1925)が霊感を得て創めたという円応教

昭和 4 年に総裁谷口雅春(まさはる)(1893 〜 1985)が,「生命の実相を知れ」「人間神の子」「天地一切のものと和解せよ」といった神啓を受けたとして,翌年 3 月に結成された生長の家

教祖岡田茂吉(1882 〜 1955)が昭和 10 年大本教から独立して開いた世界救世教

御木徳近(みきとくちか)前教主(1900 〜 1983)が,徳光教開教者の金田徳光,ひとのみち教団開教者の御木徳一(1871 〜 1938)の啓示によって悟道体得したという教義に基づき,昭和 21 年,「人生は芸術である」との思想に立って設立したパーフェクトリバティー教団

力久辰三郎が霊感による透視を発揮したとして指導布教し始めた善隣教

教祖北村サヨ(1900 〜1967)が,昭和20年8月に天照皇大神が教祖の肉体に降臨し,神人合一を体験したとして,地上に神の国建設,世界平和達成のため神教(みおしえ)を垂教、布教活動を展開した天照皇大神宮教

岡野聖憲(1881 〜 1948)が昭和 4 年に立教して「生活即宗教」を説いた解脱会などがあります。

⑵ 新宗教教団の連携と現代日本における宗教協力

諸教に分類される教団の多くは比較的新しい教団が多いです。

そのうちのいくつかの団体は宗教年鑑で神道系,仏教系に分類されている新宗教教団などとともに公益財団法人新日本宗教団体連合会(略称・新宗連)を結成しています。

宗教法人法が施行された昭和26(1951)年の 10 月に結成され,公益財団法人日本宗教連盟の協賛団体であります。

その目的は「人類福祉の増進」と「世界平和の建設」であり,「宗教協力」,「信教の自由」,「政教分離」,「国民皆信仰」の四つを活動の指標としています。

すでにいくつかは紹介しましたが,戦後,日本では神道界や仏教界,キリスト教界それぞれが協同し,宗教協力が盛んに行われてきました。

昭和 45 年には日本宗教連盟主催の「第 1回世界宗教者平和会議」が海外からキリスト教やイスラームなどの聖職者を招いて京都で開催されました。

同会議は世界各地で催され,平成 18(2006)年には第 8 回の会議が再び京都で開催されました。

また,昭和 46 年には京都において諸宗教及び宗教研究者による「現代における宗教の役割研究会」(略称・コルモス)が開催され,現在にまで及んでいます。

昭和 62 年 8 月 4 日には京都市と比叡山上で「比叡山宗教サミット」が開催され,それ以降,毎年 8 月には国内外から宗教者が集まり,世界平和祈りの集いが催されています。

諸教の流れ

参考 文部科学省文化庁発行 宗教年鑑